長崎アメリカ領事館の歴史

*このテキストはNagasaki Foreign Settlement Research Groupの資料を編集したものです。また下記の日本文は参考のための仮翻訳です。英文はこちら。



1860年から1865年、1902年から1921年まで東山手十二番館に所在したアメリカ領事館。写真提供:Nagasaki Foreign Settlement Research Group.


アメリカ合衆国は日本との条約により、1859年7月の外国人居留地の設置までに長崎に領事館を開館することを許可される。1859年4月の下旬に 駐日総領事タウンゼンド・ハリスが長崎を訪問した時、すでに何人かのアメリカ人商人たちは長崎で開業していた。5月の初め、ハリス総領事はそれらのアメリ カ商人の一人であったニューヨーク出身の実業家、ジョン・G・ウォルシュを長崎のアメリカ領事に選任した。米国議会はまだ長崎の領事を任命しておらず、ハ リスのウォルシュ指名は必要に迫られてのことだった。ウォルシュは最初のアメリカ領事館を広馬場の日本人居住区に設立した。1859年12月に建物が火事 にあった折には、ウォルシュは東山手十二番館の自宅を領事館として使用した。ウォルシュは実際には、商人の代理領事にしか過ぎず、無給で領事として務める 傍ら、個人の商業を営むことも許されていた。彼の主な職務は領事裁判官として務めること、アメリカ政府の様々な公文書を管理することであった。

1865年10月、ウィリー・P・マンガムがウォルシュの後任として領事に着任した。長崎に到着して三週間後に、マンガムは南山手に新しいアメリカ 領事館を建設した。1881年7月1日よりアレキサンダー・C・ジョーンズ将軍がマンガムの後任として領事を務めた。この時までに領事館は東山手に移って いる。1885年に東山手の敷地の持ち主が土地を売却し、ジョーンズは新しい領事館の場所を探すことを余儀なくされた。ジョーンズは結局、町の反対側にあ る南山手十四番館、旧オルト邸を借りる。彼は1885年の10月まで領事を務めた。

ジョーンズの後任はジョン・バーチである。バーチが長崎に到着した当時、領事館のあった建物は英国政府によって使用されていたため、彼は近くに土地 を借り、新しいアメリカ領事館を建設した。ウィリアム・H・アバクロンビーは1890年8月に長崎に着き、バーチの後任となる。

1898年1月、チャールズ・B・ハリスがアバクロンビーの後任として着任した。1899年の5月、すべてのアメリカ領事裁判所は抱えている訴訟 を、1894年11月に結ばれた日米条約により裁判権を失うことになる1899年7月17日までに処理するよう告げられる。1899年1月より1901年 の12月までアメリカ領事館は大浦バンドに所在した。しかしながら1902年の1月に再び東山手十二番館に戻り、1921年の5月までその場所に残存し た。



アメリカ領事館、領事職員記念撮影、撮影日の記録なし


ハリスの長崎離任は、アメリカ領事たちが政治的なつながりによって選任されていた42年続いた時代の終焉を意味した。1906年のアメリカ領事体制 の再編により、領事任命の方法は大々的に変更された。これ以降、領事はそれ以前の外交官勤務、それも多くが日本での勤務、によって実力を認められた外交官 の中から選ばれた。

1906年の改革以降、初めて長崎に着任した領事はジョージ・H・シドモアで、長く横浜のアメリカ領事館で外交官として勤めていた。シドモアの長崎 での後任は、カール・F・ダイクマンで、1909年8月中旬に着任した。1915年5月にはE・カールトン・ベイカーがダイクマンの後任として着任し、 18ヶ月務めた。

次に着任する三人の領事たちの任命は、アメリカ国務省で1906年に起きた再編成の性質を色濃く映し出していた。三人の領事たちは最初、翻訳の学生 として1907年から1912年まで来日しており、そこから外交官としてのキャリアの階段を上り始めた。それゆえ、1916年より長崎に着任した領事たち は外交官勤務経験を持っていた上、それらの外交経験は日本でなされ、日本語にも堪能であった。

それらの領事たちの一番手はエドウィン・L・ネヴィルで、1916年11月に長崎の領事に着任した。ネヴィルの後任はレイモンド・S・カーティス で、1920年3月に着任した。1922年11月初旬、ヘンリー・ヒッチコックが着任し、領事を務めたが、突然の心臓発作で倒れた。地元のメソジスト派布 教者だったグレン・ブルーナーはヒッチコックが心臓発作で亡くなった当時、長崎で副領事を務めており、1933年10月にメリーランド州出身のカール・ O・スパマーが領事として着任するまで、領事館を運営した。スパマーの後任、エドワード・S・メイニーは1937年の2月に着任した。10月にメイニーが 昇進してロンドンへ赴任した後、ニューヨーク出身のアーサー・F・タワーが着任した。タワーは日米関係が悪化しつつある間も長崎に残ったが、命令により長 崎の領事館を閉鎖し、タワーは1941年8月4日に長崎を離れ、同年8月11日に神戸の領事館の監督を任された。タワーは12月8日の真珠湾攻撃当時も神 戸におり、1942年中ごろに本国へ送還されるまで日本に残り続けた。

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